ぜいたく考

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 シンクに積もった食器が片づくのは、決まって真夜中だ。

 

 たまに夫の出張があると、背骨を抜かれたようなぐだぐだ生活になる。睡眠が増え、酒量が増え、ごみが増え、外出が減り、入浴が減る。

「留守のあいだきちんとしよう」と神妙に誓う日もあるが、それは本当に稀で、却って翌日熱を出したり、不吉だ。恥ずべき様と百も承知だが、幸い散財でも不貞でもないのだから、何とか堪忍してほしい。

 

 夜中に腹が減って、サンダルをつっかけ、コンビニへ行く。いつのまにか降った雨がいつのまにか止んだらしい。濡れた路面が香る。

 道ぎわの刈田はぬかるみ、夜の泥の中にぽっかりと白い満月が浮かんでいる。と思うと、それは倉庫の軒にさがる只の電灯のあかりで、一瞬気分が沈みかかるのを持ちこたえ、早足でローソンを目指す。

 

 そうしてさんざ買い込んだ帰り道。泥田の前に歩を止めると、満月の贋作はまだそこに在る。

 片手に提げたレジ袋がやけに重い。酔える量の安酒と食物。わたしはこれだけの質量を今晩これから容れようとしている。大した悲境も不遇もないくせに。

 よじれたレジ袋が指を締めつけ、その重さだけがやけにくっきりしてくる。もう一歩も歩けないような心持ちになりながら、それでもちゃんと帰って、3分後にはケロっと晩酌を始める。

 

 そして、リビングでふんわり酔いはじめたころにふと気づく。あした、夫が帰ってくる!

 我に返る。わたしは埃っぽい部屋で、コンビニの飯で、呑んだくれている。ああ何ともはや。そんなわけで真夜中にそそくさ、シンクにひと山の食器を洗い始めるのだ。

 こんなままならない夜ほど愛おしい。これは、最高にぜいたくな夜の覚書だ。

ノスタルジー

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 家族に愛されて育ったのに、節目節目なぜか遠ざかる選択をしつづけ、しまいに実家から1000キロの街に落ち着いてしまった。まあ、近いほど孝行ということもあるまい。そう開き直って、なるべく思いつめず笑い暮らしている。いつも、苦しいほど感謝しながら。

 

 今夏、親類の慶事を口実に二週間のいとまを請い、里帰りをした。

 長く、めまぐるしいいとまだった。バーベキューしてしけった花火を燃やし、弟の新車購入に立ちあい、慶事に感涙し、その間、道路開発に巻き込まれた父の生家は新地にぽつんと建て直され、がんばりすぎた父はドカンと腰を痛めた。わたしは寝そべったまま、いろんなものをまじまじ見ていた。愛猫のぬくもり、同居する祖母の横暴。

 そうしてつい一昨日、自分の住む街に帰ってきたのだ。

 

 夫とふたりきりの、こじんまりとしたアパートの日常に戻ると、却ってふるさとの彩度が増してくる。田舎道のひまわり、サルビア、野焼きの匂い、トタン小屋とキリスト看板、車窓からみんなで見た白い風車。ただのホームシックなのかもしれない。

 夫と食べるご飯のうまさと、脳裏にある映像の濃さ。いつも半身ふるさとに、もう半身は夫のところにある。今日こっちは雨曇りで、あっちは抜けるような晴天。こんな、隣町でも起こるようなことが時々わたしをドキッとさせる。

 

 ふるさとから離れたこの街はまだ他所のままだが、ふと見回せば、いつのまにかしっくりと見たことあるような景色に包まれている。都会も田舎も、たぶん遠い異国ですら景色はすこしずつリンクしている。

 それに案外、ゆきわたった均質なものに救われる。むかしは無機質に見えたものたち。見慣れたコンビニの灯りや勝手のよく分かるデパート、ドラッグストア、流れてくるうすあじの流行歌。ほら、どこだっていっしょだ。ふるさとを離れれば離れるほど、そう思いたくなる。

 

 稲穂が揺れている。すすきが伸び、空が遠のく。ふるさともこの街もおんなじように、きらきら、ざわざわ。いま稲穂が揺れている。

こっそりと

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 夫はよく失くしものをする。

 眼鏡、財布、スマホ。しょっちゅう失くす。レストランの席を立つときや旅先で部屋を出るときも平気であれこれ置き忘れるので、いつもわたしが気をつけている。

 

 先日、夫は大阪の雑踏にタンバリンを落としてきた。打楽器のタンバリンだ。

 そもそもそんなものを持ち歩くひとも珍しいが、休日に興ずる音楽は夫の数少ない楽しみである。リネンの袋に包まれたタンバリンは、いつの間にか楽器を積んだ小さなカートから滑り落ちてしまったらしい。帰宅してそのことに気づいても夫は平気な素振りだが、本心はわからない。

 はたして気づかないものだろうか。あれって、けっこうけたたましい音がする。

 

 わたしは想像する。あのタンバリンはどんな所に落ちたのだろう。そして、夫はどんな風に歩き去っただろう。どうせヘッドフォンなんかして夢中になって、あほみたいな顔をしてたに違いない。猫背ですたすたカートを引いて。全部ありありと見えて、なぜか一瞬満たされた気分になる。こんなしょうもない瞬間に、こっそり夫を愛している。

回想怪談

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 子どものころに一度、幽霊をみた。

 はたして幽霊と断じてよいのか、まあ、ただちょっと説明のつかないものをみたのだ。

 

 両親、わたし、弟。当時住んでいた小さな借家のリビングで、みんなが同時にみた。

 その夜わたしたちは三泊の東京旅行から帰ってきたところで、荷ほどきを後にして、ひとまずかたいウールの絨毯にくたくたのからだを放り出していた。慣れない遠出でずいぶん歩き、ほんとに心底疲れているのに、旅の余韻と「三日ぶりのわが家」がわたしたちをぽかぽか高揚させた。

 それで誰からともなく、撮りたてのビデオを上映しよう、という流れになった。(わたしと弟は旅のあいだ写ルンですを提げて駆け回ったが、その渾身の力作は現像しないことには確かめられないのだった。わたしは家族を接写し、弟は鳥ばかり撮った。)

 

 テレビとビデオを三色のケーブルでつなぐと、テレビ画面にパッと何かが映った。なんのことはない。ごわごわの絨毯からテレビボードまで、それは胡坐をかいた父の足元で、レンズがたったいま捉えている光景だった。ぱっかりと口を開いたキャリーケース、ひと山の洗たくもの、たくさんのお土産と紙袋。目の前のとっちらかった景色が、入れ子のように画面の中にあった。

 弟とわたしは忽ち面白くなって、レンズの前に手足を出し、ばかみたいにはしゃいでいた。父はビデオカメラのボタンを闇雲にいじりながら、しきりに首をかしげた。旅の様子はいっこうに再生されない。母はたばこを深々吸い、呆れたように笑っていた。

 

 結局上映会に至らぬままきりもなくだらだらしていると、ふと、テレビ画面の中を何かが横切った。ふわふわん、とあまりにもさりげない一瞬のことだったので、みんな驚きもせずふつうに見送った。

「あれ?」

 すこし経って誰かがぽつんと呟く。それを皮切りに、「うん」「みたみた!」やっとみんな我に返り、ひと騒ぎののち徐にいまみたものを反芻した。

 

「お母ちゃんのパジャマ」

 

 満場一致。テレビの中のこの部屋を横切ったのは、なぜか母の寝間着だった。母がいつも着ていた、丈の長い、淡いからし色のワンピース。それが、みんなの視界にあったテレビ画面を、ふわふわんと流れ去ったのだ。

 パジャマを着た誰かが歩いている、という風ではなくそれはもっと平面的な動きで、どう表したらよいか、えもんかけに吊るしたパジャマが宙を流れてゆくみたいだった。カメラに向かって正対したまま。

  奥の寝部屋を覗くと、母のパジャマはいつもどおり畳んだ布団の上にある。巻き戻してリプレイできたらいいのに、ビデオは「いま現在」の眺めを垂れ流しつづけるばかりで、この珍事を何ひとつ録りおさめてはくれなかった 

 とんでもないできごとではある。が、いかんせん怖くない。臆病で泣き虫だった弟がびくともしないほど、怖くなかった。あれはいったい何なんだ。むしろオチのないものをみたうずうずに憑かれ、ああでもないこうでもないと議論するうち何だかみんな眠たくなって、その夜は死んだようによく眠った。

 

 未だに時々笑い話の種になる。わが家の思い出の心霊体験。

 母のパジャマだったから、母はすこしだけ優位な当事者かもしれない。この話題になるたびに

「あのとき疲労困憊でさ、たぶん早くパジャマ着て休みたかったんだわ、お母ちゃん。生き霊、生き霊」と笑う。

 そのことばに、いささか味の濃い含みを感じなくもない。が、もしかしたら本当にそうだったのかもしれない、とどこかで納得する。わたしを育てるのはきっとものすごく大変だったでしょう。そう思うと、わたしの澱んだからだの淵に否が応にもほのほのと何かが明滅する。霊障はそっと続いている。

夢うつつ

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 夢のなかでこれは夢だと判ることがある。

 朝のひかりを肌に感じ、「どう考えても夢だな」なんて確かめながら、しばらく右往左往する。たいてい、わけの分からない忙しい夢をみている。

 

明晰夢」というものがあるらしい。夢と自覚できれば、空をとんだり大儲けをしたり、とにかく思いどおり、おいしい思いができる。それって、ほんとう?わたしには疑問だ。夢のなかでも、わたしはわたしらしい思考をしている。すこしのタイミング、ニュアンス。つまらないことばかり気にして、いつもどおりオロオロしているのだ。たとえ夢と気づいても、ずっと。

 

 気になることがある。「いじわる」なひとは、どんな夢をみるのだろうか。

 まれに出くわす強烈なひと。誰だっていつか誰かを傷つける、そういう域をド派手に超えてしまうひと。

 

 むかし、アルバイトしていたカフェのお客に、そういう強烈なひとがいた。

 小柄で身ぎれいなそのおばあさんは、毎朝店にやってきた。華奢なからだにビリビリと悪意が充填されていて、おばあさんのふるまいはとても乱暴だった。わたしは当たり散らされながら注文をとり、カウンターに投げ捨てられた小銭をかき集めるようにしてレジを済ませた。

 何より、あのひとが立ち去ったあとの席は、ひどかった。飲み残し、食べ残し、散らばるごみ屑。長皿のうえに残ったサンドイッチは、いつもめちゃくちゃに解体されていた。パンを一枚ずつ剥がし、中心をすこしだけ毟って食べるらしい。ひらかれたサンドイッチの残骸。ジャムやサラダでいっぱいに汚れた長皿。

 それを片すのはやっぱりいやな気分だった。見るたび心を削られた。

 もちろん、買ったものをどうしたって自由。自由だが。朝早くから野菜を刻み、氷水のなかで延々ゆでたまごの殻を剥き、そうしてこさえたものが態々めちゃくちゃにされるのは、アルバイトの若造にはどうにも恨めしかった。

 

 たとえば、あのおばあさんの場合。夢のなかの彼女自身はどんなふうだろう。

 夢でも不満な顔して、当たり散らしているだろうか。案外、何もかもにいじわるしなきゃ気が済まないような苦しい記憶を、夜ごと巡っているのかもしれない。それとも嘘のように穏やかだろうか。

 わたしの心はどれを望むだろう。

 どれでもいい、赤の他人のことだ。

 

 けれど、悪い夢をみた朝。不快な後味のなかで次から次、恥ずかしい記憶がせり上がってくる朝、ふとあのひとたちを思うのだ。

 想像とも記憶ともつかぬ夢うつつの暗がりを、みんなさみしい背中をして遠ざかってゆく。朝のひかりが届かない静かなその暗がりで、知らず知らず、わたしはわたしの背中を探している。

やわらかな疼き

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 季節はずれではあるが、焼きいもの話をする。

 

 幼いころ。せっかちで、なぜか自信満々で、調子にのる子どもだった。それで大小いろんなヘマをした。

 何かのはずみにふっと昔のヘマを思い出す。思わず悶絶したり、しんと沈んだり。長いときを置いたヘマはある種の珍味だ。

 

 焼きいも会は幼稚園の催しで、おそらく四才の記憶である。園庭のすみにふかふかの落ち葉をかき集め、大人たちがいもを焼いた。子どもはスモックを着せられ、透きとおる空の下、ガヤガヤといもを待っていた。

 しばらくして、ひとりに丸ごと一本ずつ新聞紙で包んだアツアツが配られた。その瞬間はきっともう、爆ぜるようなワクワクだった。四才のわたしは細い月目をキラキラ見開き、猛牛のように鼻息荒く両手に見入っていただろう。

 包みをひらいてひと口ほおばると、それはたっぷりと甘く、そしてなぜかとても柔らかかった。イメージと異なる食感、ホクホクというよりトロトロ。意表を突かれ、今もその味を覚えている。黄金色のトロトロからあふれる甘い湯気。

 

「早く食べたいよぉ」

 誰かの声が打ち水のようにわたしを冷まし、にわかにひたひたと心もとない気分が満ちてきた。そして辺りを見て、絶句した。たんぽぽ組もさくら組も園庭の子どもは誰ひとり、いもを食べていない。みんなが大事に包みを抱え、お行儀よく座っていた。先生の「いただきます」を今か今かと待っているのだった。

 

 わたしだけ。浮かれてうわの空で、話を聞き落としたのだろう。挙句フライングでいもを齧った。これはたぶん、子どもの世界では重罪。

 予期せず罪人になったわたしは内心うろたえ、からだを縮めていもを隠し、ざわめきの中に潜伏した。「いただきます」を迎えるまで、どれほど永く感じただろう。思えば哀しいほど些末なただの笑い話なのに、それはしごく真剣な潜伏だった。

 

「いーけないんだーいけないんだー」という歌を覚えたころ。未熟ですこし角張った善悪が、わたしたちを方向づけていたころ。あのころ覚えた故も知れぬ後ろ暗さを、わたしは今もすこしだけ、心のすみに持ち運んでいる。

キッチンの妖怪

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 酷暑の夏だ。「茹だる」ということばでは気が済まない。外は空焚きした鍋底のような、直火の暑さである。

 夕暮れ、その暑さがやわらぐ頃合いをみて、ひとり買いものに出る。夫の帰りに合わせて夕飯のしたくだ。蝉がざわめく夕暮れの道で、わたしはぼーっと今晩の献立を思案する。

 

 困ったらこれという「置き」の常備菜がある。刻んだちくわとキュウリを、白だし、ごま油で和えるだけ。ちょっとした箸休めに、これがおいしい。ひとり身のころから重宝しているレシピ。つくりたいものも食べたいものも浮かばない日は、とりあえずこれだ。

 

 ところが。春先、入籍まもない「ほやほや」の夫にこれを出すと、微妙な顔だった。

 それで無理くり夫を尋問すると、どうやら水っぽい味がするらしい。キュウリから出た水分で、味がぼけているんだそうな。なるほど、言われてみればうつわの底にもたっぷり水がたまっている。

「キュウリの種とるといいらしいよ」

 こともなげに夫はそう言って、それきり、文句もなくぺろりと完食した。

 

 さて。酷暑だ。

 スーパーにつづくいつもの道は昼の余熱に煙っている。その余熱のなかを、ざわざわ、ゆらゆら、眠るような心地で歩いているとふっと春のリベンジをしたくなった。それで、てきとうな食材とちくわとキュウリを買ってまっすぐ帰り、いそいそ夕飯のしたくを始めた。

 とげが痛いほどみずみずしいキュウリを縦半分に切りひらくと、半透明の種が整列している。列に沿ってスプーンで削ぐと、種はことのほかかんたんに実から剥がれた。これをわざわざ取りのぞくなんて、考えたこともなかった……。

 と思ったとたんにじわじわ、スプーンの上のこの種を捨てがたくなった。「もったいない」とはすこし違うへんてこな気分。昨日まで食べていた「実」を今日はごみ袋に捨てるちぐはぐさが、無性に「いずい」のである。

 

 しかたなく、その場で食べることにした。ショリショリ、ショリショリ、かき出したばかりのキュウリの種を、キッチンでひとり食べ切ることに。

 種はやはり水を含んでいて、途方もなく無味。ショリショリ、ショリショリ。あかりを点けるにはまだすこし早い、夕闇がなだれ込むキッチンで、わたしは猫背してキュウリの種を食べている。なんだこれ。これじゃあまるで妖怪だ。キュウリの種喰らう無害のさみしい妖怪。つくづくわたしは、よかれと思って、いつもこんな風である。

 

 さても、こういう思いしてこさえたリベンジ常備菜の成否は、無口な夫の舌だけが知っている。キッチンの妖怪はいつの間にか人妻の顔して、小さな食卓ではしゃいでいる。